唐津ぐい呑み
唐津ぐい呑みの魅力は、素朴な土の温もり、土の味わい。「陶工」の目指したものそれは、「用の美」

古唐津の魅力-陶片


HOME > 古唐津諸窯の歴史的分類

古唐津(唐津焼)の起源

領政区分による分類

文禄、慶長の役以前、松浦党波多氏の居城であった岸岳城を中心としたいくつかの窯で唐津焼が作られていたことは、今日残っている窯跡の調査でも証明されています。

しかし、陶工がいつごろ、どこからきたかということについては、はっきりわかっていません。
ただ北朝鮮会寧(かいねい・フェリョン)付近から文禄の役以前に松浦党によって、陶工たちが連れてこられ、北朝鮮系の焼物を作っただろうと想像されています。

岸岳城址は佐賀県東松浦郡北波多村にあります。

「唐津その歴史」も参照

岸岳古唐津

岸岳城址の西麓に飯洞甕下、同上の窯跡がありますが、下窯は窯床と壁の一部が残存する日本最古の割竹式登窯です。

ここの窯跡から叩き作りと轆轤(ろくろ)作りのものが出土しています。

飯洞甕窯の南西約15キロの帆柱窯は、唐津焼のなかでも最古のもので、ここの特徴は藁灰を主成分とした斑唐津釉です。

藁灰釉は北朝鮮の会寧(かいねい・フェリョン)、明川付近にのみみられる技法です。

飯洞甕下、飯洞甕上、帆柱窯以外に岸岳城周辺には、岸岳皿屋、道納星谷、平松、大谷等の諸窯跡が発見されています。

これらの窯跡を岸岳古唐津と呼んでいます。

「唐津その歴史」も参照

渡来朝鮮陶工による開窯

豊臣秀吉が慶長3年(1598)8月に病死し、日本車は、明・朝鮮両国と講和し、出兵の諸侯は次々に帰国します。
その時、多数の朝鮮の人々を連れ帰ります。

また慶長20年(1615)の大坂落城後、浪人たちの中に陶工を志す者が多く、各地に築窯して燃料の木を切ったので、山は、はげ山になったほどと伝えられています。

李朝の陶技を伝えた陶工たちは当時、日本全国に流行した織部の意匠を取り入れて、日本の風土に適した新しい焼物を創り出し、名品の数々を残しています。

慶長の役後あらたに白土を使う三島と銅を使う技法が伝えられます。
これらの諸窯を地域上及び作調から区分して、松浦(寺沢)多久、武雄、平戸の古唐津と呼んでいます。

松浦(寺沢)古唐津

岸岳陶工と渡来陶工たちによって、旧波多領内に開かれた諸窯とその分窯を松浦古唐津と呼んでいます。
松浦古唐津の大多数の窯跡は現在の伊万里市にあります。

松浦古唐津が他系統と異なるところは、藁灰釉の技法がほとんどの窯にあることで、岸岳の伝承を受け継いだ古唐津の本流ともいうべき諸窯です。

これらの窯と別派のものが、伊万里市大川内山を中心として散在する市ノ瀬高麗神窯系の諸窯です。
織部唐津ともいえる、志野、織部風の絵唐津を焼いどうぞのた窯は、蜜屋の谷、市若屋敷、焼山、道園、阿房谷等の諸窯です。

李朝鉄砂そのままの絵唐津の窯として、市ノ瀬高麗神、権現谷、牧の樽谷等の諸窯があります。
斑唐津、朝鮮唐津の有名な窯は山瀬、大川原、藤の川内、阿房谷、金石原、広谷等の諸窯です。

織部風の叩き水指や花生の優品を作った窯として、確瓦屋の谷、焼山、藤の川内等の窯があります。

椎の峯には象嵌、型紙刷毛目、櫛刷毛目等の三島唐津、三彩唐津、辰砂唐津等、唐津のすべての技法があります。

多久古唐津

佐賀県多久市にありますが、金ケ江参兵衛一派により開かれた諸窯を多久古唐津といいます。

鍋島直茂が朝鮮より帰国の時、功労のあった李やすのぶを多久安順軍にいれ、連れ帰ります。

李は姓を金ヶ江、名を参兵衛と称しました。

佐賀県多久市にありますが、金ヶ江参兵衛一派により聞かれた諸窯を多久古唐津と呼んでいます。
多久にあずけられた参兵衛は多久市西の原に唐人古場窯を開き、次に同市西多久町に移り、多久高麗谷窯を開いました。

ここでは織部風の絵唐津を焼いました。

武雄古唐津

佐賀県武雄市、嬉野町周辺に散在し、慶長の役後渡来した陶工たちによって開かれた諸窯を武雄古唐津といいます。

鍋島藩家老の後藤家信は慶長の役後、宗伝他多数の陶工を連れ帰り、家信の保護で武雄市武内町に良土を発見して、内田山に開窯します。

内田山の小峠窯系、武内町平古場の祥古谷窯系、武内町黒牟田山の錆谷窯系などの窯跡が散在しています。
武雄市東川登町の内田皿屋窯は別系統と考えられています。
蛇喝唐津を焼いた窯には、祥古谷、李祥古場、古郡甲の辻、彬の元、猪ノ古場、正源寺、牛石窯があります。
織部風の絵唐津で有名な内田皿屋窯、三島唐津の優品を焼いた峠、川古窯の谷新、大草野、百聞窯等があります。
小峠、百間窯は染付磁器を焼いた百聞窯では三島唐津染付を作っています。

平戸古唐津

佐賀県西松浦郡有田町、西有田町、長崎県佐世保市、平戸市、同県東彼杵郡波佐見町、諌早市に散在する諸窯を平戸古唐津と呼んでいます。

松浦党で平戸藩主の松浦鎮信は茶道に造詣が深く、連れ帰った男女二百余人のなかの陶工巨関、金久永らに平戸御茶盟窯を築かせ、李朝風の茶器を作らせました。

しかしその土地には良土がなく陶工たちは有田地方に土を求め歩き、三川内地方に多数の窯を開いました。
不動佐窯は大村藩主大村喜前が連れ帰った陶工が波佐見町に開いたものです。

平戸古唐津中有名な窯に平戸御茶碗窯、原明、小森谷、霞の元、柳の元窯等があります。

肥前磁器発生後の唐津

慶長三年暮にきた朝鮮の陶工たちは、故郷で作っていた白磁、青磁、染付、辰砂などを試みたようですが、良い磁土が発見できずに、白土の刷毛目、粉引や半磁器にしかなりませんでした。

椎の峯窯の刷毛目辰砂、寺の谷御家田窯の半磁の辰砂、小峠窯の半磁の染付、辰砂、鉄砂等がそれを物語っていると思います。

金ヶ江参兵衛は多久安順の許可を得て元和二年一族を連れ、有田上白川天狗谷に移り、白磁器を完成します。

宗伝は、元和四年(1618)に没し、未亡人百婆仙(百婆仙は、有田焼創業に関わった朝鮮人陶工深海宗伝の妻です。)は息子の平左衛門をたすけて一族を統率しましましたが、寛永8年(1630)一族900余人を連れて有田稗古場に移ります。


金玉江参兵衛と百婆仙母子は協力して磁器の発展に力をつくします。

有田付近の唐津窯はほとんど磁器窯となり、今日の有田焼となりました。
有田付近で起った土物か磁器物への転換現象が平戸古唐津でも起ります。

平戸御茶怨窯、西の元、柳の元、木原地蔵平窯等は平戸三川内焼となり大村藩の永尾山、中尾山等の諸窯は波佐見焼となり、鍋島藩内の清六の辻、小溝、山辺田などの諸窯は有田焼となりました。

唐津民窯

磁器窯に転換しなかった椎の峯山、内田山、黒牟田山、小田志山、庭本山、弓野山、木原山等の諸窯は農漁村用の雑器を作って土物窯として続いましましたが、有田磁器におされて、19世紀末迄にはほとんどが廃窯となりました。

唐津藩窯

慶長初期頃、初代中里又七等三名が伊万里市大川町に田代窯を開き、慶長十年(1605)頃、同市大川町川原に移り、元和元年頃椎の峯に移ります。

寺沢藩は椎の峯陶工たちの中から叉七等を御用焼物師に任じ、年一回藩御用の焼物を作らせました。

元禄14年(1702)、土井利益が藩主の頃、椎の峯陶工たちは伊力里商人からの借金を返済できず、裁判沙汰となり、関係した陶工八名は百姓に追放されてしまいます。
この事件により椎の峯は火が消えたようにさびれてしまったようです。

宝永4年(1707)11月、四代中里太郎右衛門、四代犬島弥治兵衛は藩命により唐津坊主町に御用窯を築きます。

享保19年(1734)11月、五代中里喜平次は藩命により窯を坊主町から唐人町に移します。
これが御茶碗窯ですが、明治の廃窯まで御用窯を勤めています。

廃藩後天島家は陶業より離れ、明治から大正末期迄中里家により使用され、現在は廃窯として当時の名残りを太郎右衛門陶房の一隅に留めています。

「唐津その歴史」も参照

古唐津岸嶽系の諸窯

中世の東西松浦は、松浦党の支配下にありましたが、その勢力が集中し、九州陶窯の発展に役割をはたしたのは上松浦党の波多三河守の一族一門です。
その波多氏の居城下に点在した開窯期の諸窯を古唐津岸嶽系と分類しています。

更に岸嶽直系窯の他に、近隣諸窯をも岸嶽系として加えていることは、技術が直接交流したことを意味しています。

岸嶽直系の古唐津技法は、肥前一円の陶窯は桃山末期から江戸初期の豊前の古上野系の諸窯、筑前の古高取系の諸窯と大きく交流し、その源流ともいえるようです。

開窯期の古唐津岸嶽系の系譜でも飯胴甕窯系(下窯、上窯)と帆柱窯系といった小分類が、技術の面から成り立つようです。

帰化した李朝系の陶工群が別々であるといった見解もあるようです。

飯胴甕窯は、室町末期に開窯し、文禄末期に廃窯し、間もなく復興し、江戸初期には再び廃窯といったことが推察されます。(現存の佐賀県指定史跡の古窯址は復興されたものです)

この古窯址は、「叩き手技法」の甕・壷・摺鉢・片口・徳利類の陶片が採集されていますが、摺絵を試みた草文の絵唐津の鉢をはじめ、志野風の長石釉調の強い絵唐津の変形皿や、「織部好み」に近似した彫唐津の茶碗類が出土しているのは資料です。
茶碗や、鉢・皿類・向付・山盃などは水引き技法による成型です。

岸嶽系譜窯の、帆柱窯・皿屋窯は、異色な開窯期の古窯址です。
朝鮮半島北部の会寧付近の窯場の陶技を導いた古窯で、大壷や甕類は「叩き手技法」で、小壷・摺鉢・片口類をはじめ、碗・皿類・小徳利・山盃などは「水引き」の成型です。

木灰釉・長石釉などの美しい窯変もことながら、帆柱・皿屋両窯の特色は、藁灰釉を主成分とした失透性の斑唐津がすばらしいです。

また砂目をふくんだ胎土の持味と力強い水引きに加え、藁灰釉の溶融が神秘な美しさを醸し出しています。
絵文様のある器も出土陶片にわずかにみられますが、抽象化した図案様な幾何学文様に近い模様です。

岸嶽直系の古窯に道納屋窯があります。
この窯は、帆柱窯系と飯胴甕窯系の技法が合流したような作調を残しています。

絵文様にしても抽象文的な要素から、写実化した水草文や芒文や海老文などがみられます。

岸嶽城下とは距離の離れた山境にある山瀬下窯と上窯は異色な古窯址です。
岸嶽直系の技法を反映しながら、ねっとりした鉄分の少ない白色に近い胎土は、この窯の特徴です。

生造りの削り出しあとには特有なちりめん文が残っており、底切れがみられるのが多く見られます。

甕類や大壷類はあまりなく、成型の薄い水引きが特長で、碗・皿類の小形状の器が多く見られます。

伝世品は非常に少ないようです。

古唐津岸嶽系の諸窯は、当時の生産環境からみても茶陶意識が薄く、雑器窯として半農半陶の営みです。
僅かに桃山末期に復興した飯胴甕窯では、「古田織部」の間接的影響がみられます。


「唐津その歴史」も参照

古唐津の築窯

古唐津の窯の形式は、朝鮮系の連房式登り窯で、一般に割竹式と呼ばれるものに近かったようです。
外形は竹を二つに割って伏せたような形状となり、内容は竹の節に当たるところが隔壁になり、天井も下部から上部まで連房した蒲鉾形をしており、その中のトンネルに間仕切(室)の隔壁を設けたものと推定されます。

この形式は、窯詰め・焚方を在来より能率化し、焼成時の上昇温度の均一化が得られるといわれています。
古唐津陶器の古窯址は、現在百数十ヵ所確認されていますが、岸嶽系飯胴甕下窯のような状態で保存されているのは他にありません。

全長19メートル、幅2メートルの階股式連房登り窯で、胴本間とよぶ焚口は別として1室から7室で構成され、五室・六室に僅かに左右の両壁が残っています。
窯壁の部分を補強したあとがみられ、通焔孔(さまあな)にも、適当な大きさに水成岩を割り、粘土で付着させています。

内部の構造は胴木間より4室までは同じ幅ですが、5室・6室で急にせまくなり、7室で広くなっています。

窯の高さは非常に低く、平均1.2メートル前後であると推定されます。


「唐津その歴史」も参照

唐津ぐい呑み作品集

唐津ぐい呑み作品集

唐津ぐい呑みサイトの「陶工達」の作品集です。

作品集へLinkIcon

唐津-その歴史

唐津ぐい呑み-斑唐津

無名の唐津焼が、老舗の美濃・瀬戸などの大産地と肩を並べ得た背景は何でしょうか。

関連リンクLinkIcon

古唐津の魅力

唐津ぐい呑み-古唐津

桃山文化がはぐくんだ古唐津の魅力とは

関連リンクLinkIcon

ぐい呑み-その魅力

唐津ぐい呑み-唐津皮鯨

唐津のぐい呑みとは実に不思議な器ですね。
酒を呑む器として、ごくありふれた器なのに。

関連リンクLinkIcon

唐津-技術と技法

唐津ぐい呑み-土と釉薬

陶土のあるところ、その顔料があり、しかも上に生えている松は燃料で、その灰は釉薬の原料。これらすべて神のなせる業。

関連リンクLinkIcon

陶芸-用語集

唐津ぐい呑み-日本人の感性

桃山時代に花開いた唐津焼などの焼き物にはいろんな名前が付きました。焼き物専用の用語がたくさんあります。
焼きのもの語源を調べると一層焼き物が好きに。

関連リンクLinkIcon

日本人の感性

唐津ぐい呑み-日本人の感性

やきものの「景色」は具象的に自然などの景観をイメージするというよりは、「見どころが多い」というほどの意味に使われるようです。
日本人は、その変化を感性で感じ取っています。

関連リンクLinkIcon

唐津焼-育てる

唐津ぐい呑み-斑唐津-育つ

使っていると酒器はだんだんとその表情を変えていきます。
これも酒好き、酒器好きの楽しみの一つですね。

関連リンクLinkIcon

日本酒とぐい呑み

唐津ぐい呑み-片口

神前に御神酒を奉納し、収穫をすれば神に感謝し、人々は酒を飲み交わす。
「御神酒あがらぬ神はない」、人が酒を飲むのは当たり。

関連リンクLinkIcon

唐津の源流-
李朝・高麗

粉青沙器(粉粧灰青沙器)

唐津ぐい呑み-粉青沙器(粉粧灰青沙器)唐津ぐい呑み-粉青沙器(粉粧灰青沙器)
粉青沙器は印花文・象嵌文が先に発達し、剥地文・彫花文・鉄画文・刷毛文・粉粧文など白上粉粧の変化によって種類も多様になりました。

こうした粉青沙器は十五世紀初期すでに器形・文様・釉薬などから粉青沙器としての特徴を表わし始め、印花文・象嵌文・剥地文・彫花文系は世宗から世祖代まで、鉄画文・刷毛文・粉粧文系は成宗代まで殆んどその完成を見るに至ったのです。

粉青沙器の特質は、種々の粉粧法からくる力強くも、新鮮潤達な、そして自由奔放な粧飾意匠ですね。

唐津の源流ともいえる李朝の世界へ