唐津ぐい呑み
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古唐津諸窯の地域的分類

領政区分による分類

古唐津は時代と共に変化し、また、領政と直接・間接的に結びつき、地域分類が必要となります。

肥前国(ひぜんのくにはがつて日本の地方行政区分だった国の一つで、西海道に含まれます。
現在の佐賀県と、対馬市と壱岐市を除く長崎県にあたります。)という広い地域のなかで、唐津領内と佐賀領内という大分類がまず必要です。

唐津領内では旧波多領内を古唐津岸嶽系(桃山時代の文禄三年まで)として特色づけられます。

古唐津は、近世において、領主政策の影響を受けましたが、唐津領内の諸窯を、古唐津松浦系として小分類し、佐賀領内を、古唐津多久系(多久)、古唐津佐賀系(伊万里川辺の西松浦地方の山境)、古唐津武雄系(武雄の北部・南部)、あるいは古唐津平戸系(旧平戸松浦領内)として小分類して考察することが一般的になされています。

地域分類の場合、佐賀領内の南川原山(西有田地方)系の諸窯を古唐津松浦系に編入することもありますが、平戸藩の「境目」と隣接する窯として古唐津平戸系に分類している場合が多いようです。

陶工の移動が容易ですが、陶技の交流が多かったため、作調・釉調が、似かよっていることを意味しているように思われます。

領政区分からすると、南川原山地域の陶窯は西松浦系として地域分類されると思います。

時代分類の面からは、室町末期から桃山初期(文禄・慶長以前)主として15世紀末から16世紀末までの唐津領内の陶器焼成窯を「開窯時代」として分類し、その後文禄・慶長年間から桃山末期を経て、江戸初期の元和末年内外の間を「初期古唐津」と分類し、江戸初期、寛永来年前後から、元禄・享保年間内外を、「中期古唐津」として分類されると思います。

また江戸中期以降から、江戸末期までを「後期古唐津」とした時代分類が成り立つようです。

技術の面からの分類

(叩き手技法・水引き技法)・施釉分類(釉薬の内容、釉調の窯変から分類)、装飾分類(無地・絵唐津
・象嵌・刷毛目・・・)といった総合的な技術分類によって分類ができると思われます。

古唐津は、地域分類と時代分類、織部以前の古唐津、あるいは茶陶以前の古唐津に一線を引き、時代の流れのなかで織部以後の古唐津、茶陶以後の古唐津といった様式、さらに多岐にわたる技術分類があります。

雑器としての古唐津(茶陶以前)、茶陶としての古唐津、民藷陶器としての江戸期の古唐津、献上唐津といった用途分類も成り立つようです。

織部以前の古唐津、織部以後の古唐津といった分類をすると、美濃陶と唐津陶との技術の交流なり、相互の関連性もあります。



「唐津その歴史」も参照

古唐津岸嶽系の諸窯

中世の東西松浦は、松浦党の支配下にありましたが、その勢力が集中し、九州陶窯の発展に役割をはたしたのは上松浦党の波多三河守の一族一門です。
その波多氏の居城下に点在した開窯期の諸窯を古唐津岸嶽系と分類しています。

更に岸嶽直系窯の他に、近隣諸窯をも岸嶽系として加えていることは、技術が直接交流したことを意味しています。

岸嶽直系の古唐津技法は、肥前一円の陶窯は桃山末期から江戸初期の豊前の古上野系の諸窯、筑前の古高取系の諸窯と大きく交流し、その源流ともいえるようです。

開窯期の古唐津岸嶽系の系譜でも飯胴甕窯系(下窯、上窯)と帆柱窯系といった小分類が、技術の面から成り立つようです。

帰化した李朝系の陶工群が別々であるといった見解もあるようです。

飯胴甕窯は、室町末期に開窯し、文禄末期に廃窯し、間もなく復興し、江戸初期には再び廃窯といったことが推察されます。(現存の佐賀県指定史跡の古窯址は復興されたものです)

この古窯址は、「叩き手技法」の甕・壷・摺鉢・片口・徳利類の陶片が採集されていますが、摺絵を試みた草文の絵唐津の鉢をはじめ、志野風の長石釉調の強い絵唐津の変形皿や、「織部好み」に近似した彫唐津の茶碗類が出土しているのは資料です。
茶碗や、鉢・皿類・向付・山盃などは水引き技法による成型です。

岸嶽系譜窯の、帆柱窯・皿屋窯は、異色な開窯期の古窯址です。
朝鮮半島北部の会寧付近の窯場の陶技を導いた古窯で、大壷や甕類は「叩き手技法」で、小壷・摺鉢・片口類をはじめ、碗・皿類・小徳利・山盃などは「水引き」の成型です。

木灰釉・長石釉などの美しい窯変もことながら、帆柱・皿屋両窯の特色は、藁灰釉を主成分とした失透性の斑唐津がすばらしいです。

また砂目をふくんだ胎土の持味と力強い水引きに加え、藁灰釉の溶融が神秘な美しさを醸し出しています。
絵文様のある器も出土陶片にわずかにみられますが、抽象化した図案様な幾何学文様に近い模様です。

岸嶽直系の古窯に道納屋窯があります。
この窯は、帆柱窯系と飯胴甕窯系の技法が合流したような作調を残しています。

絵文様にしても抽象文的な要素から、写実化した水草文や芒文や海老文などがみられます。

岸嶽城下とは距離の離れた山境にある山瀬下窯と上窯は異色な古窯址です。
岸嶽直系の技法を反映しながら、ねっとりした鉄分の少ない白色に近い胎土は、この窯の特徴です。

生造りの削り出しあとには特有なちりめん文が残っており、底切れがみられるのが多く見られます。

甕類や大壷類はあまりなく、成型の薄い水引きが特長で、碗・皿類の小形状の器が多く見られます。

伝世品は非常に少ないようです。

古唐津岸嶽系の諸窯は、当時の生産環境からみても茶陶意識が薄く、雑器窯として半農半陶の営みです。
僅かに桃山末期に復興した飯胴甕窯では、「古田織部」の間接的影響がみられます。


「唐津その歴史」も参照

古唐津松浦系の諸窯

桃山末期の地域性と時代性を背景として展開した古唐津松浦系請窯は、ある意味では唐津領内・佐賀領内・平戸領内・大村領内と広地域に大きな影響をあたえた古唐津の主流だと思います。

桃山末期、豊臣秀吉の朝鮮出兵によって肥後の加藤清正第二軍に鍋島直茂(佐賀藩)があり、その配下で松浦党の波多三河守親(ちかし)(好清)は、部下の大半を失いました。
その結果、波多氏は居城を失い、唐津領は新領主寺沢志摩守広高を迎えました。

寺沢志摩守は、利休門下の茶人であり武将であったので、領内の陶工を保護したようです。
古唐津松浦系の広地域に分布する諸窯は、古唐津岸嶽系の陶工と、文禄・慶長の役以後に唐津領内に帰化定住した新しい李朝系陶工が合流して発達した窯場です。

古唐津松浦系の古窯のなかで、最も規模が大きく、陶工群窯の地ですが、永く続いた窯場は「椎の峰窯」です。

中里家や大島家というような、唐津藩の御茶碗窯をはじめ唐津領内諸窯の陶工は、椎の峰窯陶工の分派です。

この古窯の特色としては、桃山末期の「奥高麗」風の茶碗類をはじめ、江戸期の多岐多様な品種が伝世品になっています。

釉調も複雑で、土灰釉・黒鎖・飴釉・斑釉を用いており、装飾技法としては、刷毛目文・櫛目文・指掻き文・摺絵文・絵唐津の他に、象嵌技法をはじめ、彫り絵文・印花文など多彩なのが特徴です。

椎の峰開窯当時の桃山末期の製品には、力強い茶陶を生み出しているものの、江戸中期になると雑器窯的な製品を作陶しているようです。

当時としては量産をはかり、伊万里を通して諸領内に取引され、商品性を強めたと思われます。

伊万里街道(伊万里から武雄)よりの大河内山境には、古唐津松浦系とは別地域の古唐津佐賀系に分類される権現谷窯・市の瀬高麗神窯などの窯場があります。

特に高麗神窯は、絵唐津調の片口をはじめ水指類の優品を焼成し、格調の高い伝世品が多く見られます。

古唐津松浦系の諸窯のなかで、唐津領内で、現在の伊万里市大川町川原地域にある、焼山窯(下窯・上窯)は、雑器が中心ですが、特に甕・瓶・壷類をはじめ碗・皿類も焼成していたようですが、奥高麗調の茶碗や、固く焼き締まった陶胎に、山野の雑草を描いた陶片群が確認されています。

当屋の谷窯は焼山窯の東方にありましたが、最近は開発が進み、ほとんどが果樹園となっているようです。
松絵の大平鉢や径四〇センチを越えた大鉢に、実に自由な樹木文様や雑草や禽鳥文様・動物文様を、大胆に力強い筆致で描いた絵唐津の素晴らしい陶片が確認されています。

絵唐津の窯としては、道園窯・阿房谷窯は、茶人の間で注目をあびている古窯址です。

道園古窯品の特色としては、胎土が淡褐色で特に固く焼き締まっており、簡潔な草文様を描いています。

茶陶・茶器にふさわしい成型で、向付・平鉢類が多く見られます。
董文・露草文・蔓草文をはじめ、図案風な三つ星・丸文・御所車模様などがあり、美しい絵唐津を数多く焼成しています。

阿房谷下窯・上窯の絵唐津は、道園窯と対照的で、絵文様の描き方は素朴です。

製品も茶陶様式の向付・皿類の小器物が多く、釉調も、黒釉・飴釉などもみられますが、主として灰釉です。
胎土は固く、焼きあがりもよく焼き締まっている製品が多くみられます。

藤の川内窯は「朝鮮唐津」調の徳利・壷を焼成した窯場として有名で、三基の登り窯が確認されています。
鉄分の多い胎土を用い、主に雑器的な瓶・徳利・壷類を主として焼成した登り窯と、胎土が白味を帯び、砂目のある胎土の碗・皿順に点文様や丸文様や単調な草花文様を「一筆調」に描いた絵唐津が出土されています。

この窯の朝鮮唐津調の飴釉(鉄釉)と藁灰物の二重掛の徳利類や壷類は、主として「もみがら」を底において焼成しています。


「唐津その歴史」も参照

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粉青沙器(粉粧灰青沙器)

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粉青沙器は印花文・象嵌文が先に発達し、剥地文・彫花文・鉄画文・刷毛文・粉粧文など白上粉粧の変化によって種類も多様になりました。

こうした粉青沙器は十五世紀初期すでに器形・文様・釉薬などから粉青沙器としての特徴を表わし始め、印花文・象嵌文・剥地文・彫花文系は世宗から世祖代まで、鉄画文・刷毛文・粉粧文系は成宗代まで殆んどその完成を見るに至ったのです。

粉青沙器の特質は、種々の粉粧法からくる力強くも、新鮮潤達な、そして自由奔放な粧飾意匠ですね。

唐津の源流ともいえる李朝の世界へ