唐津ぐい呑み
唐津ぐい呑みの魅力は、素朴な土の温もり、土の味わい。「陶工」の目指したものそれは、「用の美」

古唐津の魅力-陶片


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古唐津の研究の意義

伝統の技法を復元する研究意義

佐賀県、長崎県内には、古唐津系の古窯跡(国指定史跡を含む)が数十基近く確認されていますが、現在の時点において純粋にその技法を伝承している窯場は数少ないと思います。

しかしながら、肥前陶磁の系譜の中の古唐津系の古い技法を現在の時点において記録し、半ば復元する事は不可能ではないと思います。

伝統の技法を復元する事は、生産環境の変貌に加えて、往時の原材料の入手困難、道具の変革などからきわめて無理な条件が多すぎます。

現在の時点において可能な範囲内で、往時の伝世品により近い胎士、釉薬をはじめ道具を選択し、適切な技術を考察し、研究しなければならないと思います。

古唐津の陶技の復元ではなく、客観的な立場において、桃山末期から江戸中期の間に生産された器物類の中から伝世品、陶片を中心に製作上の資料を集めて、それぞれの技法内容を考慮し、古唐津の研究を続けていく必要があります。

社会環境の近代化はいうまでもなく、窯業の生産環境生産工程の近代化、一般生活の近代化といった変革の激しい中で、先人たちの生活の需要を満していた桃山末期から江戸中期の諸窯の伝統陶器ももはや過去の遺産に過ぎませんが、それらの文化財的な陶器を産み出した技法を、将来のためにも、今日の時代にその概要を残す事はきわめて大切なことだと思います。


「唐津その歴史」も参照

古唐津の窯跡

古唐津を焼いていたと思われる指定窯跡群

概要

唐津市北波多は旧唐津市と伊万里市の中間に位置し、その位置が東松浦半島の扇の要にあたることから、中世末期には、戦国大名への歩みを始めた波多氏の本拠地として栄え、数多くの遺跡が残っています。


波多氏は、平安時代末期より肥前松浦郡を中心に活動した、嵯峨源氏を称する「松浦党」の一員とされ、南北朝以来しだいに力を貯え、戦国時代には上松浦党の盟主として、一時期壱岐をもその支配下に置くほどの勢いがあります。


波多氏の居城です岸岳城の山麓に分布する窯跡は「岸岳古窯跡」と総称され、北波多村には皿屋窯、皿屋上窯、帆柱窯、飯洞甕上窯・飯洞甕下窯の5窯が確認されています。


肥前陶器(唐津焼)の開窯時期に関しては諸説があるものの、古拙な特徴を持つこれら岸岳古窯跡が草創期の窯として注目され、その製品や釉薬・成形技法・窯詰め手法等の独自性から、文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)以前に築かれた、国内では最も古い登窯群ですと高く評価されています。


一方、御茶窯跡が立地する唐津市町田は、かつて唐人町とよばれた現在の唐津市の中心市街地に位置します。

宝永4年(1707)4代中里太郎右衛門は、4代大島弥兵衛とともに藩命により唐津の坊主町に御用窯(坊主町御茶碗窯)を築いました。

その後、享保19年(1734)11月に5代中里喜平次、5代大島弥吉が藩命により窯を坊主町から本窯のある唐人町に移したとされます。

御茶窯跡は享保19年(1734)から明治4年(1871)まで唐津藩の御用窯として使用され、以降は大正年間まで中里一族により使用されていました。

同窯製品は御用窯として使用された期間のものを献上唐津と称し、茶碗、水指、花生、向付等の茶陶や茶碗、大皿、皿、床置等あらゆるものがあります。

献上唐津には染付磁器風のものも多く雲鶴象嵌の手は代表作品となっています。

唐津系陶器の窯として江戸中期~後期を中心に近代まで操業されたものとして遺存状況も良好で唐津焼の時代性を知る上で大変貴重なものです。


(1)皿屋上窯跡

皿屋上窯は、焼成室を分割する隔壁を持たない無段・単室の窯で、現在までに確認されている肥前古窯跡の中で、この構造をもつものは本窯跡だけです。

ここで焼かれた製品は、全て甕・壷・徳利などの叩き成形の貯蔵器ですが、岸岳系古唐津窯のなかでも特異な位置を占める。

その窯構造・製品とも李朝甕器窯と酷似し、まさしく朝鮮半島の直接的な影響のもとに築かれたことが判る重要な窯と、高く評価されています。

窯跡は溜池に接して、その北斜面に築かれており、全長約16.4mをはかる。

焼成室の一部は村道により削平されていますが、窯尻及び燃焼室は良好に保存されています。

調査終了後は、山砂にて埋め戻しを行い保護を図っています。

(2)帆柱窯跡

窯体の勾配角は約21度で、全長は水平距離で約30mを測る。
焼成室1室の規模はほぼ2×2mですことから、その数は14室程度になりますと考えられます。

出土した陶器は、皿・碗・小杯・瓶・杯台などで、藁灰釉製品がその殆どですが、一部透明釉の物も存在します。
窯道具はトチンのほかにハマも出土しており、同じ藁灰釉製品を多く焼成する皿屋窯との相違を示しています。

確認調査後は山砂により埋め戻し保存し、周囲一帯は文化財敷として佐賀森林管理署より借地しています。

窯跡周辺は、国有林で良好な自然環境が残る。

昭和30年1月1日に佐賀県史跡に指定されています。

(3)皿屋窯跡

皿屋窯は全長23.5mの登窯で、10又は11の焼成室を持つ。
焼成室の平面プランは、火床境部分がごく僅かに絞られており、胴部の張る形態への萌芽とも考えられます。

一方この窯では、釉剥ぎの胎土目積という特異な窯詰方法が採用されており、製品・焼成技術の上でも、様々な特徴を持つ早期古唐津窯の好例です。
発掘後は山砂により埋め戻し保存されています。

窯跡本体はすでに公有化を行っており、平成11年に北波多村史跡(平成17年1月1日より合併に伴い唐津市史跡)に指定しています。

(4)飯洞甕上窯跡

調査の結果、飯洞甕上窯は、焼成室間の段差が無く、割竹形の登窯でも最も古い形態の一つですことが確認されています。

本窯で多用される緑透色の土灰釉と透明釉は、その後に肥前西部地域に展開する唐津焼諸窯の主流となります釉薬で、窯構造・製品とも肥前陶器窯に直接繋がる窯跡として、重要な位置を占めています。

飯洞甕上窯跡の周囲は北波多村で公有化が完了し、前面に流れる小川とともに、当時の景観が良好に保存されています。

昭和30年1月1日に佐賀県史跡に指定されています。
窯跡周辺は、山林や小川、池など自然環境に恵まれ、遊歩道を完備した「古窯の森公園」として整備されています。

(5)飯洞甕下窯跡

飯洞甕下窯は、全長18.4mをはかる割竹形の登窯で、焚口から窯尻までが完全に残る。
岸岳系古唐津窯の中では唯一、窯の上部構造です隔壁が残存しており、肥前系登窯の構造を研究する上で特に重要な遺跡です。
またその後の古唐津を特徴付ける、鉄絵装飾の初源的製品が焼かれていることも特筆されます。
飯洞甕下窯の周囲は、金網のフェンスで囲っています。
窯跡は上屋で覆い、残存する上部構造を保護しています。

昭和30年1月1日に佐賀県史跡に指定されています。
現在は公有化を行い、周辺は、「古窯の森公園」として整備されています。

(6)御茶碗窯跡

御茶碗窯跡は、連房式登窯で現在長27.5m、焼成室7+α室が残存しています。
窯壁面、焚口部分の残りもよく、天井部もほぼ全体が遺存しています。
焼成室の規模、傾斜等の詳細な調査はなされていないが、胴木間の幅は小さく上部の焼成室幅は大きくなり、末広がりの扇面の形をしています。
また、年代幅の中で変化の跡も認められます。

大正年間まで中里一族により使用されており、その後も中里一族により保全がなされてきます。

平成7年に市史跡に指定されています。



「唐津その歴史」も参照

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使っていると酒器はだんだんとその表情を変えていきます。
これも酒好き、酒器好きの楽しみの一つですね。

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神前に御神酒を奉納し、収穫をすれば神に感謝し、人々は酒を飲み交わす。
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唐津の源流-
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粉青沙器(粉粧灰青沙器)

唐津ぐい呑み-粉青沙器(粉粧灰青沙器)唐津ぐい呑み-粉青沙器(粉粧灰青沙器)
粉青沙器は印花文・象嵌文が先に発達し、剥地文・彫花文・鉄画文・刷毛文・粉粧文など白上粉粧の変化によって種類も多様になりました。

こうした粉青沙器は十五世紀初期すでに器形・文様・釉薬などから粉青沙器としての特徴を表わし始め、印花文・象嵌文・剥地文・彫花文系は世宗から世祖代まで、鉄画文・刷毛文・粉粧文系は成宗代まで殆んどその完成を見るに至ったのです。

粉青沙器の特質は、種々の粉粧法からくる力強くも、新鮮潤達な、そして自由奔放な粧飾意匠ですね。

唐津の源流ともいえる李朝の世界へ