唐津ぐい呑み
唐津ぐい呑みの魅力は、素朴な土の温もり、土の味わい。「陶工」の目指したものそれは、「用の美」

古唐津の魅力-陶片


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古唐津の歴史的背景

古唐津の開窯の要因。

中世末期から近世初期にわたって開窯制作期を迎えた、古唐津の歴史的背景のなかには、およそ次の要点があると思われます。

・歴史の流れと、時代の推移と、社会情勢の急激な変化のなかで、後期の封建政治形態のなかにおいて、相互に有機的な関連性を持った。

・中世の中期から近世初期に及ぶ、海路を通しての九州経済圏の確立を行った。

・諸国を平定し、統一政策を試みた豊臣秀吉は、文禄・慶長の二度にわたる朝鮮出兵。

・文禄・慶長の役の彼の地の陶工たちの帰化により、李朝中期の陶技の導入。

・筑前の博多、肥前の伊万里・平戸津、長崎出島、薩摩の坊の津などを活動拠点とした豪商をはじめ、廻船問屋・職商人・通詞などの経済的な役割。

「唐津その歴史」も参照

古唐津と松浦党

波多一族の支配下にあった松浦海賊

古唐津-陶片中世の中期より、近世初期の九州経済圏の様相なり規模なり交易の方法は、近世初期にきわめて短い歳月のなかで開窯され、幅広く分流した九州の諸窯の展開を左右したと思われます。

この期における九州的な地勢と、日本列島における西国的位置と、社会構造と、士豪的な戦国武将の支配下の領民感情はまた、九州経済圏の成長・盛衰に大きく影響しています。

窯芸の分野においては、唐物・高麗物の二様式を導入した結果ともなり、領主経済の枠内において、実物経済・貨幣経済のなかで、交易品としての取扱を受けることになったのです。

中世において九州の各荘園が大きく貿易に参与し、貢納物や公事に舶載外来品が登場していることは、博多荘内や島津荘内の、異国船の到着寄港地としての役割が示しています。

当時の舶載品が、西日本一円の武家や豪族や数寄者(すきしゃ、すきもの・は芸道に執心な人物の俗称。)間に、「唐物」へのあこがれや、「南蛮物」への興味をそそる結果ともなり、舶載の異国の「茶壷」をはじめ、「碗類」「香道具」などの器物への関心を高め、「唐物」や「渡り物」は武家社会や士豪の社会に友誼(ゆうぎ)を深めるための貢物ともなり、ある時は政略上の道具ともなったと思われます。

その反面に、中世末期の九州の経済に一役をはたしたのは、松浦海賊をはじめ、九州一円の士豪らによる活発な略奪的行動であったことは注目すべきことだと思います。

『海東諸国記』に、肥前の上下松浦は海賊の根拠地で、高麗朝の末に、朝鮮に侵入した倭寇は松浦と壱岐・対馬の者が一番多いことを記録し、『李朝実録』もまたこの事実を裏付けています。

この場合は、主として波多一族の支配下にあった松浦海賊を主班として、筑前の宗像海賊や四国の伊予海賊も加わり、船団を組み、海戦的な規模において侵略と略奪を試みています。

松浦海賊では、主として下松浦地方の松浦党ですが、上松浦地方においても、領主波多氏の勢力範囲内の呼子氏・佐志氏・有浦氏・塩津留氏・名護屋氏も一役をかっていたようです。

松浦海賊の行為は、「古唐津」との関連性を秘めていると思います。

「唐津その歴史」も参照

古唐津と秀吉の朝鮮出兵

「”やきもの”戦争

古唐津-陶片朝鮮をはじめ、明国沿岸への海賊の侵入略奪行為も、秀吉の天下統一の業が功を奏した天正十六年(1588)7月の海賊禁止令によってなくなったようです。

この海賊の行動が、西日本地区への文化移入に、農工的な生産加工業に、大きな影響をもたらし、秀吉の征韓の役後の九州全地域の殖産業への影響が、この海外派兵の事件を、俗に「”やきもの”戦争」といわれるほどに、窯業史上に革新をもたらしたと思います。


天正十八年(1590)3月、秀吉は大陸進攻の議を決して、その本営の地を九州西北の名護屋の地に定めました。

名護屋は、松浦の波多三河守親(ちかし)の領下で、東西に入江と湾をもち、軍船の碇泊地近くの水深は深く、丘陵の背後は台地で、諸将・諸兵の駐も陣営の地にふさわしい地理的条件に恵まれていたことが、ここが拠点となった要因であると思います。

秀吉が6万余騎をしたがえて京都伏見城を進発し、陸路を肥前の名護屋に到着したのは文禄元年(1592)4月25日です。

この年は朝鮮においては宜祖二十六年、明国では万暦二十年です。


豊臣秀吉の朝鮮出兵も、「古唐津」との関連性を秘めていると思います。

「唐津その歴史」も参照

古唐津と豪商

九州のやきものを支えた豪商達の役割

古唐津-陶片名護屋城は、割普請の法によって築いた「主攻従防」の構えですが、相当長期の滞在にも適した雄大な規模で、五層七重の天守閣、本丸・二の丸・三の丸、三層二階などの櫓をはじめ、書院・数寄屋造り・楼門と、権勢を象徴したような黄金の茶室と、佗びの世界に通う山里の茶室が築かれ、京住いに似た雰囲気のなかで、秀吉は諸大名を招き、出陣の労をねぎらったといわれています。

文禄・慶長の二期にわたる彼の地の戦陣の様相や勝敗の結末は別として、両度の役に参戦し、遠く朝鮮の山野に領民・長兵を進めた第一軍と第二軍の九州の諸将・領主たちは、文禄三年(1594)前後に、南朝鮮の戦野で道案内を務めた農民や諸職・商人たちを数多く九州の地に連れかえり、自領に安住帰化させ、自領の殖産業に利用するといったきっかけを与えたことは歴史上の事実に明らかだと思います。

九州の諸窯の開窯と創業の一役をになった職人の陶工は、いずれも雑器を焼成した半農半陶であったと推定されます。

九州の開窯の動機と歴史的背景は、文禄・慶長の役の副産物的な収穫であったともいえますが、近世に入り領主経済が確立され、貨幣経済や交換経済の制度のなかで陶器や磁器が交易品として積み出され、国内市場へも九州窯騒品がその価値を生むに至った裏には、九州の津浦を拠点とした豪商の対明・対鮮交易の母胎があり、諸国の領主の経済圏内に交渉を行っていたからだと思われます。


安土・桃山時代の筑前博多の三傑と呼ばれた豪商は、神谷宗湛・島井宗室・大賀宗白で、応仁の乱後の群雄割拠による相次ぐ戦火に見舞われた博多を、商都へと復興した実力者は彼等です。

神谷宗湛は、神谷家の六代目ですが、十九歳から、天正十年(1582)に上洛するまでの十三年間を唐津で過し、朱印船に乗りこみ、自ら異国を訪問しては海外雄飛にもえ、世界の事情に明るい人です。

宗湛は、茶道をたしなみ、秀吉・家康・黒田長政からも寵愛されました。
宗湛は、『宗湛日記』『宗湛筆記馳の伝えるように、数多くの大茶会に参席しました。

文禄元年(1592)、四十二歳の際に、、肥前名護屋城の黄金の茶会、同城山里の座敷開きに招かれ、翌年には、名護屋城の陣や請大名の茶会にも招かれ、その後、家康とも茶道を通しての交りを深め、宗湛七十四歳の寛永元年(1624)には、知行五百石を与えられています。

唐津陶器は、慶長年間に至って、茶器として茶席で愛玩されましたが慶長十一年(1606)10月の大阪、津田宗風(宗及の男)の茶会で、神谷宗湛が送った「唐津肩衝茶入」が用いられたことが会記に記載されているほど、宗湛は、唐津の陶器を愛し、唐津陶を中央の茶人たちにも紹介したようです。

資本主である豪商をはじめ、廻船問屋・朱印船主の相互の結びつきによって近世初期の貿易が進展し、近世中期において九州諸窯の製品が市場性を確保できたのだと思います。

唐津をはじめ、九州の国焼諸窯には、中世末期から近世初期という日本歴史の歩みのなかで、その歴史的背景と産業経済史的な背景において、生れるべくして生れた数多くの要因があったのだと思います。

「唐津その歴史」を参照

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唐津の源流-
李朝・高麗

粉青沙器(粉粧灰青沙器)

唐津ぐい呑み-粉青沙器(粉粧灰青沙器)唐津ぐい呑み-粉青沙器(粉粧灰青沙器)
粉青沙器は印花文・象嵌文が先に発達し、剥地文・彫花文・鉄画文・刷毛文・粉粧文など白上粉粧の変化によって種類も多様になりました。

こうした粉青沙器は十五世紀初期すでに器形・文様・釉薬などから粉青沙器としての特徴を表わし始め、印花文・象嵌文・剥地文・彫花文系は世宗から世祖代まで、鉄画文・刷毛文・粉粧文系は成宗代まで殆んどその完成を見るに至ったのです。

粉青沙器の特質は、種々の粉粧法からくる力強くも、新鮮潤達な、そして自由奔放な粧飾意匠ですね。

唐津の源流ともいえる李朝の世界へ